風邪の話
ケホッ、ケホッ、と、雑渡が苦しげな咳をする。その響きで、喉の奥が腫れているのがわかる。いつもしゃんとした背が今は丸く、まだ残暑の残る初秋に火鉢などあたっている。あまりに寒がるので、さきほど高坂が蔵から引っ張り出してきたものだ。百忍の頂点に立つ男が、かたなしである。
「あ~、やだやだ。急に寒くなるんだもん」
「だからお寝間着を秋ものに替えましょうとお伝えしたのです」
「まだ大丈夫だと思ったんだよ……そんなにやわじゃないし」
やわである。自覚がないだけである。高坂は舌先まで出かかった言葉を、やっと飲み込んだ。雑渡は骨格や筋肉といった身体は強いのに、ときおり子どものように熱を出す。思うに五臓が弱いのだ。火傷の影響かと思っていたが、山本や押都に聞くと、昔からだという。昨日までピンピンしていたくせに唐突に熱を出すことは、子どものころからあったようだ。それをじょうずに隠すことも。
「……保健委員の子たちにはうまく言ってくれた?」
「はい、任務があるからどうのこうのと言っておきました。残念がっていましたよ。組頭も、さぞおつらかったことでしょう。あなたさまは約束を反故にしたことなどありません」
「薬草摘み大会だって。行きたかったな」
暑くなっちゃった。そう呟いて、雑渡は火鉢から離れ、敷きものの上に寝転がった。熱で火照った顔。そのひとみが、少しだけ潤んでいるように見える。あおむけの体勢から、雑渡は「陣左」と呼びかけた。
「約束を反故にしたことがないなんて、大嘘だよ」
「……そんなことはありません」
「火傷してから、いろんな約束を反故にしてきた。おまえにも、尊奈門にも、誰に対してもだ」
「組頭」
いつになく強い口調で呼びかける。
「あれは反故などではありません。私たちは誰もそうは思っておりません」
「……」
「あなたは戻ってきてくださった。我々のところへ。それ以上なにを望むでしょうか」
高坂は横になる雑渡の隣に膝行り、熱い額を撫でる。
「お熱があって気持ちが塞いでいるのです。ご自愛ください」
「おまえは優しいね」
「……優しい陣左に、ご褒美を戴けませんか?」
「ご褒美?」
熱を持った頬を触り、雑渡の許しもなしに、そのくちびるに口づけた。覆いかぶさった体の下で、足が戸惑ったように動き、敷きものの上でかすかな音を立てる。
「だめ、じんざ……」
舌を絡ませる。少し乾燥した雑渡の舌は、びろうどのような感触だった。抵抗はない。それなら、もっと深くまで……口吸いのあいだでかすかに漏れる苦しそうな吐息。弱っているものに、こんなことをしてはいけない。しかも、心から慕ってやまない相手に。痛む心の反対側で、今まで自分にすら秘匿していたちいさな嗜虐心が満たされていくのを感じた。胃のあたりがせりあがるような高揚。それを自覚してから、高坂はくちびるを離す。あらわになっている首筋をあまく噛むと、雑渡の体がびくっと震えた。
「もう……うつっちゃうよ」
「風邪は人にうつすと治りが早いと聞きます」
右目のそばに口づけ、囁いた。
「陣左にもくださいませ」
熱で溶けきったひとみにほほえみかける。荒い呼吸が落ち着くのも待たずに、高坂はまた雑渡のくちびるをふさいだ。高い体温と汗ばんだ肌は、抱き合っているときを思い起こさせる。逃げる舌先を絡ませ、左手で長い髪を撫でた。毛先を指に絡ませたまま、しっとりとした頬を包む。
「昆奈門さま……」
「ん、ぅ……」
吐息のかかる距離で名前を呼び、布地に隠された体の線をたどるように愛撫した。雑渡は小さな声を漏らす。右目の端から涙がひとすじこぼれた。
「……陣左、だめ」
子どもを静かにさせるときのしぐさで、くちびるの前にひとさし指を立てる。これは、絶対に破ってはいけない決まりだ。高坂はしぶしぶ雑渡から体を離し、距離をとって正座した。
「ときどきおまえは悪い狼になるね」
「申し訳ございません……」
「わかればいいよ。火鉢ありがとう。もう戻りなさい」
「……」
やりすぎてしまった……内心で後悔しながら、座礼し、部屋を出ようとする。そのとき、「陣左」と声がかかった。
「これで風邪をひいたら承知しないよ。元気でいられたら……そうだね、ご褒美をあげてもいい」
「は……!」
「なにがいい?」
ずっとずっと、この先もずっと、陣左をおそばに。高坂の頭にまず浮かんだのはそれだ。でも、さきほどの雑渡の悲しげな表情を思い出す。火傷を負った雑渡は約束を反故にしたといまだに悔やんでいる……明日をも知れぬ忍という身。過ぎた願いは言えない。もし違えたら、その理由が何であれ、この人は傷つく。ずっと覚えていて、苦しみ続ける。
「お元気になられたら、陣左と一緒にあけびをとりに行ってくださいませ」
「……うん、わかった。必ずね」
笑う雑渡の目もとにかすかなしわができる。いとおしい小さな約束を胸に刻み、今度こそ高坂はその場をあとにした。