箸の話
三日ほど前から、高坂と雑渡の攻防は始まっていた。次の訓練は早朝から、暮れ方まで続ける計画だ。途中、炊事などできそうな場がないため、各自弁当を持参するよう伝えたのは雑渡だ。高坂は「組頭の弁当は私が準備いたします」と申し出た。「頼んだよ」と、雑渡は答える。そして、高坂の目を見つめて続けた。「箸を忘れないでね」。
箸を持ってこない。弁当が必要なとき、高坂が準備してくれることは珍しくない。しかし、高坂はふたりぶんの弁当を準備しても、箸だけはなぜか一膳しか持ってこない。五打数安打なしである。
「組頭のぶんの箸を忘れてしまいました……」
きゅっと唇を噛みしめ、そう打ち明ける表情が今から想像できる。そして高坂は雑渡に向き直ると、一膳だけの箸でおかずをひとつつまみ、
「僭越ながらこの陣左、組頭にあーんさせていただきたく……」
たぶんこうなる。雑渡は確信した。五回も繰り返したらさすがに気がつく。高坂は雑渡に手ずから食べさせたいのだ。それが目的なのだ。
「陣左、明日の弁当のことだけど」
訓練を翌朝に控え、雑渡は高坂を呼ぶ。
「はっ、手はずはすべて整えております。メニューは芋の煮っころがしと、舞茸のバター炒めと、茄子のなんかでございます」
「うん、いろいろ考えてくれてありがとう。でも明日は訓練だし、そんなにゆっくり食べる時間も取れないだろうから、おにぎりとかでいいよ」
「行程表には昼九つから一刻ほど休憩と書かれております。問題ないかと」
「でも私、組頭だからいろいろあって」
「組頭にはおいしいおかずも食べていただきたいのです」
高坂は眉を寄せ、控えめな視線を雑渡にくれた。
「いけませんか……」
雑渡とて、おいしいおかずが食べたくないわけではない。おにぎりに、おかずがついていたら嬉しいに決まっている。高坂の見えている罠と、かれの気持ちと、おいしいおかずのあいだでぐらぐらと揺れる。
「わかったよ……そこまで言うのなら、頼んだよ。でもいいかい陣左、これだけは約束して」
「心得ております、組頭」
箸を忘れない。ふたりは頷き合って、その晩は解散となった。
とはいえ、雑渡は高坂を信用していない。前回、高坂が弁当を用意したときは、雑渡が事前に察知して風呂敷に箸を入れたが、粉砕されていたのだ。愕然とした。執念とは何かを痛感させられたものだ。
高坂に箸の存在を悟られてはいけない。雑渡は忍び装束を広げ、さまざまなところに箸を隠し持つことにした。棒手裏剣もすべて箸にかえた。小しころを隠し持つポケットなどにも、すべて箸を入れておいた。そうして迎えた運命の日……念のため、雑渡は出発前に高坂を呼ぶ。
「陣左、箸は持ったね」
「はい。ちゃんと持ってございます」
「……私のぶんの箸もあるよね」
「もちろんここに準備してございます。さっ、参りましょう」
そう言って雑渡を促すふりをしながら、高坂が箸を投げ捨てたのを雑渡は見逃さなかった。しかし、指摘しない。今日の雑渡には予備の箸があるのだ。ここはあえて素通りし、高坂を油断させるのがいいだろう。ピリピリと張りつめたふたりの空気。気持ちが高まる。
訓練は滞りなく進み、いよいよ昼九つとなった。決戦のときである。かつてないほど、雑渡の気持ちは高揚していた。さあ、どうする高坂陣内左衛門。今日はおまえの思い通りにはならない。箸はいたるところに隠してある。
「あっ……」
弁当を広げようとしていた高坂が、ちいさく声を漏らしたのを、雑渡は聞き逃さなかった。ひとつ、心臓が大きく音を立てる。
「どうした陣左?」
「組頭のぶんの箸をなくしてしまいました……」
そりゃあおまえ、出がけに投げ捨てていたからな。そう言いたいのをぐっとこらえ、雑渡は脚絆に手を伸ばした。
「また箸を忘れてしまったのか……こんなこともあろうかと、予備の箸を持ってきた。それを使うよ」
外側のポケットを探る。そこにあったのは……棒手裏剣だった。
「組頭」
「陣左……おまえ……」
「棒手裏剣で食事をするのは、危のうございます」
雑渡が箸にすり替えておいたはずのものが、棒手裏剣に戻っている。他のポケットを探る。すべてだ。いつだ。いつの間にやった。腹の奥から笑いがこみ上げてくる。おもしろい。この男、なかなかにおもしろい。高坂は目を光らせた。雑渡には、獲物を前に舌なめずりをするけものに見えた。
「僭越ながらこの陣左、組頭にあーんさせていただきたく……」
「ふふふ……いいだろう、陣左」
雑渡は口布をずらす。
「次の弁当もおまえに頼むよ」
「心得てございます。次こそは、箸を忘れません」