陣左のようすがおかしくなくておかしい
平和な日だ。雑渡は文机に右肘をつき、意味もなく筆をぶらぶらさせた。任務もなく、山積している用事にも今日は目をつぶっておけるほどの時間の余裕があり、殿からのお呼び出しもない。暇である。ワーカホリックのきらいがある雑渡は任務がないと身の置き場がないようで落ち込むたちであった。ため息をつく。
「組頭、どうなさいました」
「陣左……どうしたはこっちの台詞だよ。何も言ってないし何もない」
「組頭がため息をつかれたので……」
「ため息くらい誰だってつくでしょ」
「何かお悩みがあるのではと、この高坂陣内左衛門馳せ参じました」
本当に何にもないんだけど……と、雑渡は内心で頭を抱えた。高坂はとにかく雑渡に対して過保護である。甘い。過ぎた甘味は毒になる。とはいえ、それを本人に言うのは酷というもの。雑渡のことについては、高坂は止まると死ぬマグロだ。
「あー……」
その場しのぎで、適当な用事を言い渡すことにした。
「最近、果物を食べてないなと思って。そうだな……柿。柿が食べたいな」
「柿でございますね。ではさっそく……」
駆け出そうとする高坂の頭巾の余りを掴む。
「でも柿は熊や猪の食べものでもあるだろう。だからむやみにとってはいけないと」
「大丈夫です。近隣の熊の情報によると、今年は柿が豊作で、組頭が召し上がっても大丈夫だと」
「近隣の熊の情報?」
「月輪の家系は熊と極太なパイプを持っておりますので、許してもらえます」
「極太なパイプ?」
知らない単語が並ぶなか、「では!」とまた駆け出そうとした高坂の頭巾の余りを再び掴む。
「本当に少しでいいんだよ?」
「組頭……正確に仰らないと、陣左は里じゅうの柿をとってきてしまいますよ?」
「私なんか怒られてる?」
眉間をきゅっと寄せ、雑渡は少し間を置いてから答えた。
「そんなにいらない。ふたつくらいあったらいいんだ」
「組頭は無欲でいらっしゃる……」
「無欲っていうか……柿は食べすぎると体に悪いし」
「承知いたしました。この陣左、組頭のために必ずやおいしい柿をとって参りますっ!」
行ってしまった……雑渡は高坂が音速で閉めたために、反動で再び開いてしまったふすまから外を見、今度こそ理由のあるため息をついた。
「なんていうかあの子……ときどき怖いんだよなあ……」
ときどき怖いんだよなあ……
ときどき怖いんだよなあ…………
ときどき怖いんだよなあ………………
雑渡のため息が聞き取れる男に、その呟きが聞こえないはずがなかった。柿を探して奔走していた足どりは徐々にとぼとぼと頼りなくなってゆき、やがて完全に止まってしまった。そこから一歩も踏み出す勇気が出なくなった。
「私が組頭を怖がらせている……?」
その事実は高坂を愕然とさせた。いつも、雑渡のことを第一に考えてきた。寒いとか、暑いとか、頭やおなかが痛いとか、包帯がゆるんでいらいらするとか、あらゆる負の感情を一切雑渡に寄せつけない。そして、不足があるなら満たしたい。果物が食べたいならばとってくる。それが自分の使命だと心得てきた。その自分が、雑渡を怖がらせているなど。
「どうして、組頭はわたしを怖いと……」
まったく自覚のない高坂はその場に膝をついた。
『ほーうたいはー しっかりまーいても きーつすぎずー』
そのとき、どこからか陽気な歌が聴こえてきた。鬱蒼とした森には不似合だ。どん底まで気落ちした高坂には、それが黄泉へと誘う調べに思えた。
「あれ? 伊作先輩、誰かがうずくまってます!」
「大変だ……どうされたのですか? どこか痛みますか?」
「あなたは……タソガレドキ城の高坂さん!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、もうかなり見慣れた忍術学園の顔ぶれが目に入った。今日は善法寺、猪名寺、斉藤の三人であった。
「怪我ですか? それともどこか具合が?」
「い、いや、すまん。怪我でも病気でもないんだ」
「じゃあ、なにか悩みごとですかー?」
斉藤が高坂の顔を覗き込む。
「なぜ」内心を見透かされたような気がして、たじろぐ。
「うーん、なんとなく」
そして、もともとほほえんでいるように見える目をさらに細めて笑った。
「泣きそうに見えたから」
ドキッ……と、心臓が音を立てる。とっさに否定できない。自分が雑渡のひと言で、いっそ泣きたくなるくらい動揺したのはほんとうだったからだ。
「……なにか、心配ごとがあるんですか?」
「僕たちでよければ話を聞きますよ」
優しい保健委員たちの声……高坂は陥落し、すべて話した。自分が雑渡と出会い、いかにかれを愛してきたか。そして、さきほど起こったことのすべてを、半刻ほどかけて話した。かれらは高坂の話をおやつなど食べながら聞いてくれ、洗いざらい話し終えた高坂に、斉藤はこう言った。
「それは高坂さんが悪いと思う」
「なぜだ? 私は組頭のためを思って……」
「高坂さんが、雑渡さんのペースを考えていないからですよー」
ペース? と、高坂は眉間にしわを寄せる。
「どのくらいの速度で歩いたらいちばん安心するのか、どのくらいの時間をかけてどのくらい食べられたら『おなかいっぱい』と思うのか、ってことです。それを高坂さんがわかってない気がするんです」
「……」
「『しあわせ』って、人それぞれいちばん心地いいところがあると思う。話を聞いてほしいときに尋ねてくれるのが嬉しいし、おいしいものはひとりで食べるより好きな人と一緒に食べられたらいい。雑渡さんが高坂さんを怖いって言ったのは、そういうペースを高坂さんがわかってなかったからじゃないですか?」
やわらかーい口調で次々と核心を突かれ、高坂は思わず胸をおさえた。雑渡のペースを、今まで考えていなかったわけではない。でも、かれには隙がない。高坂に自分のペースを悟らせない。いつしか、高坂はどんなちいさな雑渡の変化も見逃したくなくなった。
「それが結果的に雑渡さんを怖がらせてしまったんですね」
煎餅をかじりながら、猪名寺があわれそうに呟く。雑渡のペースを考える。言葉にすると簡単だが、高坂には途方もない難題に思えた。
「私はいったいどうすれば……」
「そんなの簡単ですよー。今が怖いって思うのなら、速すぎってことじゃないかなあ。もっとゆっくり、優しく、接してあげたらいいと思いますよ」
礼として柿をひとつずつ渡し、高坂は三人と別れた。そして、雑渡のためにふたつだけ柿を選び、かれのもとへ帰ってきた。雑渡はまじめに書きものにいそしんでいた。
「遅かったじゃないか陣左。冷えただろう。入りなさい」
「失礼いたします。組頭、お約束した通り柿を選んで参りました」
「ありがとう。立派な柿だ。一緒に食べよう」
そう言われ、高坂は笑顔を見せる。
「よろしいのですか。ご相伴にあずかります。よく洗ってきましたので、このまま召し上がれますよ」
「気が利くね。ではいただくとしよう」
口布を下げ、柿をかじる。その表情を少し見守ってから、高坂も熟した実に歯を立てた。
「……おいしい。いいのを選んできてくれたね」
「本当に、おいしゅうございますね。我ながら、いい仕事をしました」
微笑み合う。ゆっくりとした時間。高坂はふと気がつき、雑渡に「失礼します」と断る。右手を伸ばし、口もとについた果肉を指でとった。
「なにかついてた? 恥ずかしいな」
「……もう大丈夫です」
そう言って笑いかけると、雑渡のほほにさっと朱がさす。少し目を伏せ、「ありがとう」と消え入るような声で言う。おかしい……雑渡はうつむいた。胸がどきどきする。雑渡は高坂のほうをほとんど向かずに、柿を食べ終えた。高坂は懐紙に包んだ種やヘタを捨ててくると言って部屋を辞し、残された雑渡は高坂の消えていったふすまをぼーっと見つめる。そこへ、山本がやってくる。
「失礼します。組頭、はかどっておりますか。……組頭?」
「おかしい」
雑渡はどこか心ここにあらずというようすだった。山本は首をかしげる。
「どうかされたのですか」
「陣左のようすがおかしくなくて、おかしい」
しばし沈黙する。
「……ようすがおかしくないのはいいことではないですか?」
「いいことなんだけど、あの子に限って」
そこで言葉を切った。ぎゅっと耐えるように黙ったあと、抑えきれなかった気持ちが言葉になる。
「なにか他に心が動くようなことがあったのかもしれない。私から気持ちが離れたのかもしれない」
「おまえ……」
「もう好きじゃなくなったのかな」
そのとき、どこかから大急ぎで駆けてくる足音がした。
「組頭~~~!」
雑渡のため息が聞き取れる男に、その呟きが聞こえないはずがない。高坂は懐紙をそのへんに投げ捨て、愛するもののもとへ戻ってきた。