おやすみ

変わった男だと思った。前世の記憶があるのだという。それによると、かれは生まれ変わる前、ある人を愛していたが、ついにその人と結ばれることはなかったそうだ。戦火にのまれ、かれの想い人は死んだ。残されたかれは天寿を全うしたが、家庭をもつことはなかったという。

前世での名前を訊いた。でも、教えてくれなかった。呼ばれたらきっと泣いてしまうと、かれは笑った。

雑然とした机に、缶ビールとコンドームの箱が転がる。かれは左手で私の額を撫で、生まれつき見えない左目に口づけた。釣り目が特徴的な、美しい男だ。それなのに、どことなく言動が残念なのが可愛くて連絡先を交換した。周囲に尋ねたが、みんな残念なところはないという。

最後に私の右目を見つめたあと、誘うように薄く開けた唇にキスをしてくれた。舌先を少しだけ舐め、かれの体温は離れていく。私の図体がでかいせいで、狭いベッドの隣に寝る。私のほうを向き、飽きもせずに顔を眺めている。

「そんなに見られたら穴が開いちゃうよ」
「傷ひとつつきそうにありませんが」
「……傷ついちゃう。逆に」

ふわ……とあくびをした私に、かれはほほえむ。裸の肩を撫でる手は熱い。この手で触れられることが、いつしか怖くなっていた。

「……前世の人を今でも愛しているくせに」
「ええ、とても」

うっとりとした視線をくれる。子どもを寝かしつけるような、一定のリズムでてのひらが触れては離れていく。

「でも、たとえその方が私のことを思い出して下さったとしても、私はこの想いを押し通してはいけないと思っています。たとえ同じ蓮のもとに生まれたとしても、ひとつひとつ別の体があるのですから」
「まじめなんだぁ」
「……そうでもありませんよ」

ゆっくりとしたリズムで肩を叩いていた手がとまり、親指が肌を撫ぜる。かれの想いは決して揺らぐことはない。はじめはさして気にしていなかったその事実が、近ごろ胸をぎゅっと苦しくさせる。この手がほんとうに愛したいのは、私ではない。わかっていたはずだ。うっすら涙の膜が張る。暗い部屋では気づかないだろう。それをまばたきしてごまかしたら、なんだか眠たくなった。

「前世の人のことは、よく覚えてるの?」
「忘れることなどできません……と言いたいところですが、少しぼやけている部分もあります」
「特に覚えてることはある?」

前世の人を想う、かれの顔は見ていたくなくて、目を閉じる。かれは「そうですね……」と少し考えてから、答えた。また私の肩をゆっくりとした速度で撫でる。

「一緒に食事をしていたのですが」
「うん……」眠たくなってきた。
「その方のおかずがどうやら多かったようで、食べきれないから少し取ってほしい。好きなだけ取っていいと言われたのですが、割と大部分を取ってしまい……後悔したこととか……」
「そんなこと細かいこと覚えてるの?」

思わず目を開けて吹き出した私に、かれも笑った。

「なぜか覚えています。その方の前ではいつでも過不足なくありたかったので」
「ふうん……」

もう寝ましょう。誘われるまま、私はまた目を閉じる。

「その人が死んだときは、やっぱり泣いたの?」

なにげなく尋ねたら、かれが言葉に詰まる気配がした。

「あの方は私に多くを求めませんでしたが、たったひとつ約束したことがあります。『自分のことでもう泣かないこと』。だから……」

私は泣きませんでしたよ。かれがそう言うのを聞いてから、私は眠りの中に落ちた。

不思議な夢を見た。着物を着た少年と、手をつないで川辺のようなところを歩いていた。私は相変わらず片目だけの視界で、泣き腫らしたその子の顔を見た。どことなく、かれに似た少年だった。

2025.08.10.