誰も知らない
「いつかは要らなくなるものだから」
昆奈門は、こともなげに言った。留守にすることも多い、雑渡家の屋敷。その片づけを手伝ってほしいと頼まれたのは、よく晴れた秋の日だった。夏がまだ名残惜しそうにこちらを見ているような暑さ。深い色あいの空が、さえざえと青い。
独り者にしては多すぎる部屋の窓をひとつひとつ開けていく。忍装束ばかりで、ひさしく目にしなかった普段着の腕の、やけど痕を包帯が覆う。
お父上が亡くなり、お母上もすでになく、人のいない屋敷は静まり返っている。長らく使っていないという部屋はほこりだらけだ。家具や道具類は今や役割を忘れ、ただ誰かがかつてそこにいた痕跡だけを寂しく残す。
「人に譲るにしろ、潰すにしろ、少しは片づけておかないと……と思ってね」
ひさしぶりに風をいっぱいに吸い込んだ屋敷の、どこからかギ……と木のきしむ音がした。ざああ……と庭木が葉を揺らす。運がよければもうじき、ここにはたくさんの蜜柑が実をつける。縁側でしばらくそうして、空気が入れ替わるのを待った。もしかしたら最後の一匹かもしれないヒグラシが鳴き終わったころ、私は膝を叩いて立ち上がる。
「よし、やりますか」
「ありがとう、陣内。付き合ってくれて」
『ありがとう、陣内』
よく似た声を思い出す。昆奈門がまだ乳飲子だったころ、お父上がやっと寝かしつけて任務に出かけた。夜風が少し冷える秋。ひとときの留守を任された私も、船を漕いでいた。落ちかけたまぶたの狭い視界から、昆奈門の大福のようなほほを見つめる……そんな穏やかな時間は、昆奈門が目を覚まし、大泣きしたことで一変する。知っているだけのあやしかたをすべて試しても泣き止まず、困り果てていたとき、勝手に泣き疲れた昆奈門は座布団で私の小指を握って眠った。
夜明け近くにお父上は戻られ、私を労ってくださった。ありがとう、陣内。そのときの座布団が、部屋のかたすみにある。麻の布地は色あせ、擦れて綿が出ていた。思い出せる。昨日のことのように。でも、全て持って行くことはできない。何かを必ず、捨てて行かなくてはいけない。
「この棚は修繕したら売れるかな」
「ひさしぶりに大工のまねごとでもやってみますか」
家財道具を仕分けて運び出していく。まだ使えるものと、もう壊れてしまっているもの。売れそうなものは売り、がらくたは燃やすか、薪や鉄くず、砂利の材料などにする。やっとひと部屋をまっさらにした頃には、夜の虫が鳴き始めていた。
「……今日はここまでにしよう」
窓から月を見て、昆奈門は呟いた。
「もっとどんどん片づけていけると思ったんだけど……思った以上に疲れるものだね」
どう返事をしていいか、わからなかった。昆奈門が捨て去ろうとしているもののすべてを、推しはかることはきっとできない。生まれた頃から知っている。小さかった背丈は竹のように伸び、その背にさまざまな重たいものを乗せられている。責務。憧憬。夢……のようなもの。おそらく私も、決して軽くない想いを、かれに背負わせているひとりだ。
「……何か作りましょうか。腹も減ったでしょう」
「悪いけど、頼むよ。今夜は泊まっていって。布団はあるから」
柱に手をかけ、部屋を出ようとした。指先が、何かまっすぐな線にひっかかる。立派な柱だ。そこに真横に刻まれた傷が……七本。背丈を印したのだ。思わずほほがゆるむのと同時に、胸がぎゅうっと苦しくなる。お父上亡きあと、誰も昆奈門の成長を見守り、その背丈を印すものなどいなくなったのだ。私でさえ。最後の傷は、私の背丈よりずっと低い。まだ子どもだったのに、私はお父上の代わりにこの子の年を数えてやることさえしなかった。
「……組頭、ここへ」
「ん? 何?」
手招きする。私のもとへ歩み寄る途中で、柱の傷のことを思い出したようだ。昆奈門が笑う。
「あー、これ父上が! 私、こんなにちっちゃかったんだね」
「そうですよ。懐かしい……私の指を握って眠ったことなど、もう覚えていないでしょう」
「ぜんぜん覚えてない。悪さして怒られた記憶しかないね」
とん、と、昆奈門が柱に背を預ける。いちばん高い傷は、肩甲骨のあたりだ。私は懐から小刀を取り出す。
「動かないでくださいね」
「印つけてくれるの? 届く?」
「忍たまではないんですから」
髪の毛切らないでね。そう言ったきり、昆奈門はしばらく黙った。柱に新しい傷をつける。この子が今、何を捨てようとしていても、新しく渡されるものがある。昆奈門の周りの者たちから。そして、私からも。
「できましたよ」
「うん」
昆奈門が振り返り、ふたりでできたての傷を見る。
「ふふっ、我ながらでっかくなったもんだ」
その笑顔を見て、私も笑った。あの日見た、大福のような顔の面影が、確かにそこにある。ずっと見ていたいと思った。そばで見守りたいと思った。愛らしくて、憎たらしい、あの日となにも変わらない。
翌朝、昆奈門より早く目が覚めた私は、開けっ放しだった窓から蜜柑の木を眺めていた。昆奈門は珍しく熟睡しているようだ。少しだけ振り返ったあと、また視線を戻す。
「父上……?」
眠そうな昆奈門の声が背にかかり、ぎょっとして振り返る。昆奈門は私の顔を見て目が覚めたようで、口を覆って笑った。
「ごめんっ、ふふふ、間違えた……陣内、おはよう」
「昆」
「んふ、可笑しい……なんで、こんなっ 父上」
笑い声に、嗚咽が混じる。右目からポタッと涙がこぼれた。私は昆奈門の背を抱き寄せる。